その503 荒市の話 2020.11.8

2020/11/08

 津野町の片岡直輝、直温兄弟の生家を訪ねた。
兄弟は大阪ガスや日本生命などを興し、政治家にもなった人物。
古くなった生家を立て直すことになり、すでに社長であった兄弟は豪邸を建てることもできたが、
母の願いを聞いて元の家を復元することにした。大正時代のことだという。
説明してくれたのは、役場にお勤めであろうか、地元の方だった。
さっぱりとした造りの家で、彫り込んだ欄間はなく、細い材を縦に組んだ欄間であった。
 
 解説の方が言い伝えを教えてくれた。
津野町の不入山の北側には剛力の人物がいて、あちこちの山や原野を開拓していた。
あまりに力が強くて開拓するので、土地が取られることを恐れた住民が
橋の下に潜んで剛力の彼を襲った。
切られた足が谷川に流れ、足川と言うようになったと。
 
 その頃私は、不入山の北西にコウヤマキの群生林があることを知って、行こうと思っていた。
営林局が保護林を設け、登山道をつけている。
営林局のホームページと国土地理院の地形図をたよりに、国道439号線の王在家から林道に入る。
不入渓谷に沿って東に進み、国有林に入る。
林道に分岐があり、直進は不入山林道、右折は足川山林道という。
そうか、言い伝えの足川は不入渓谷のことなのだ。
 
 翌週、オーテピアで伝説のことを調べた。
高知県のコーナーに津野山異談・続編(梼原村史編纂員 中越徳太郎著、高知県梼原村刊、昭和30年)
という本を見つけた。教えてもらった伝説が二か所に記されている。
剛力の者の名は荒市(荒一とも)。
荒市が殻小豆を八斗背負って一本橋にかかったところで、
近在の二人が柄鍬で(柄鎌でとも)襲いかかり、荒市は川に落ち、足は川に流れた。
 
 荒市の母は嘆いて、遺体を埋めその上に松を植えた。
母はこう言った。
「上の枝が枯れれば上分、下の枝が枯れれば下分滅びよ。」
上分、下分とは荒市を襲った人物の二つの屋敷のことだ。
その後、洪水が起こり松は流されてしまい、上分、下分の屋敷はともに滅びた。
後に、荒市をなぐさめようと墓所が川の中の大岩に作られたという。
 
 もう一つ「東津野村史跡・名勝めぐり」(東津野村教育委員会 昭和43年)という資料がある。
荒市の墓について載っており、場所も書いてある。
当時の建物や橋は現存しないと思われるが、行ってみなければ分かるまい。
 
 もう一度、不入林道へ行ってみた。
資料に記載の「橋を渡り右の谷をつけてしばらく上ると、、、」
というのは全く見当もつかなかったが、
林道がくぐる手掘りのトンネルの少し手前に、「荒一の墓」と小さな表示があって、
道路わきの岩に金属の階段がついている。
十段ほど登るとしめ縄があり、くぐると岩の上に四重ほどの石塔が建っている。
苔むしていて、刻まれた字は読みにくいが、
荒市の事跡に災害復旧などの記事を加えて、昭和40年に東津野村が建てたもののようだ。
しめ縄の様子から、今も祀られているように思う。
 
 雨上がりの紅葉は一段と鮮やかで、陽光を透して赤や黄色の葉が湧きたつように美しい。
津野町、梼原町の懐の深さを垣間見た気がする。